大学生が考えるエリート教育
お久しぶりです。なんだかんだ前の投稿から偉く時間が経ってしまった!
今日からは絶対に毎日投稿したいと思いますw
いきなりですが、今日は教育について考えたいと思います。自分自身大学生ですが、大学に入れば勉強はしなくなり毎日ウェイウェイして、サークルに行ったり飲み会にいったり合コンに行ったり、と楽しいことづくめ・・・のように思えますがやはり学問が疎かになっています。何でこんなことになってしまうのでしょうか?
そもそもこの大学全入のご時世、勉強する意味自体あるのでしょうか?学費は高いし、すぐ働いた方が日本全体で見ればいいような気がします。
大学に入るにはもちろん”大学入試”を突破しなければなりません。ではこの大学入試は昔も同じような形態だったのでしょうか?やはり明治時代、列強が植民地支配を進めていく中、東の小国である日本もその危機があり、「これではあかん!かもられる!」と東大を頂点として、外国人を雇うことで授業をしてどんどん先進技術を取り入れるということが行われました。
じゃあその入試制度はどこから輸入してきたからというと、確かフランスだった気が・・・(記憶がw今度からちゃんと調べます)ではフランスが一番最初かというとそういうわけではありません。実は中国の”科挙”をもとにしているそうです。
科挙というと中国全土から頭のいい人たちが集まって、受かるのは数人、また勉強年数も非常に時間がかかり、60過ぎになってようやく合格したという話もあり僕には真似ができそうにありません笑
今まではただ四書五経を暗記するというクソゲーテストだと思っていたのですが、実際には違うようです。
科挙には郷試、院試、殿試など段階があるそうです。
最初はただの筆記試験で言葉遣いをチェックします。中国は中国語という一つの共通の話し言葉があるわけではなく、地方によってまちまちなので書き言葉によって統一しているのだと思います。
次に詩を作るそうです。これは国民に心を訴えるような話し方ができるかを判断しているそうです。今の政治家さんにはポエマーなる人種はいるのかどうか。。。
そして、琴棋書画(琴と囲碁と書と画の四芸のこと)という、試験官を前に感動させられるかというものがあるそうです。僕は全てできませんw
最後に皇帝自らの面接があるらしく、ちびっちゃいますねこれは。
このように人物試験が重要視されているらしく、僕的にはただの筆記試験というイメージが強かったために新しい発見でした。
また、内田樹の町場の教育論によると
教養とはコミュニケーションの訓練
だそうです。東洋では六芸、西洋では7芸(いわゆるリベラルアーツ)が教養とされていますが、六芸の方が優れていると言っています。
六芸は、礼・楽・射・御・書・数のことです。
礼は死者との、音楽は楽器との、射・御は馬とのコミュニケーションで、つまり未知のものとのコミュニケーションの技術を磨くことだそうです。
なので今の教育は書・数に傾いているという記述には納得しました。
二つの著書から今のエリート教育に欠けているものは、いわゆる机の上の勉強でなく「コミュニケーション能力を磨く」ということなのではないかと思いました。
最後に日下公人の「エリート教育とは?」についての論考を引用して終わりたいと思います。
エリート教育とは、おだて上げることによって「生まれてからこのかた、自分は庶民からたくさんもらった。もらいつくしたから、何か返さなくてはいけない」と思う人を作ること
なんだかんだ教育に一番大事なのは、”人との絆”な気がします。